第1話

君の走馬灯

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夜。

フェンスの向こうに、古びた病院が佇んでいる。

門柱の脇、錆びた看板に文字が残っていた。

「春風総合病院」

どこにでもありそうな名前だ。

門は、半分だけ開いたままになっている。

閉じられることを、やめたみたいに。

奥へ続く道は、草に飲まれかけていた。

誰も通らなくなって、どれくらい経つんだろう。

「……いいな、こういうの」

ここには、確かに人がいた。

今はもう、何も残っていないのに。

笑って、泣いて、当たり前に過ごしていたはずの場所。

今はもう、何も残っていない。

――“痕跡だけが、ここにある”。

ふと、2階の窓に目がいく。

割れたガラスの奥で、

何かが、動いた気がした。

……いや、気のせいか。

視線を戻す。 開いたままの門。

まるで―― 「入っていい」と言われているみたいだった。

気づけば、足が前に出ていた。

門をくぐる。

その瞬間、空気が変わった。

外の音が、少し遠くなる。

建物内へ足を進めた。

廊下を進む。

部屋番号が読み取れないドアが、いくつも並んでいる。

足を止めた。

「……今。」

何か、聞こえた気がした。

心電図の音。

そんなはずはない。

ここは、もう――

心電図の音は、一つだけ半開きのドアの先で鳴っていた。

暗闇が、静かに口を開けている。

しばらく見つめる。

何も起きない。

何も、いるはずがない。

……それでも。

足が、勝手に動いた。

ドアを押し開ける。

部屋の中央に、ベッドが残されていた。

朽ちたこの部屋の中で、そこだけが誰かの不在を抱えたまま、まだここに留まっていた。

近づいた。

シーツは黄ばみ、枕はまだそこにあった。 誰かが今しがた起き上がったような形のまま、時間だけが止まっていた。

触れたくなかった。

でも、手が動いた。

——伸ばした指先が、フレームの縁に触れた。

冷たかった。

次の瞬間 ——熱かった。

息が止まった。

視界の端から、白が滲んでくる。

思い出せないはずのものが——

「カーテンに囲まれた、小さな病室。」

灰色の管が、ベッドの上の彼女の口元に繋がっている。

心電図の波形が、規則正しく揺れていた。それだけが、彼女がまだここにいることの証だった。

サイドテーブルに、買ってきた花を置いた。

栞が好きだった花を選んだつもりだったが、売店にはあまり種類がなくて、結局よくわからない白い花になった。

「ねえ」

かすれた、けれど確かな声だった。

最後だと、わかっていた。口には出さなかった。

僕は何も言えず、ベッドの横のパイプ椅子に腰を下ろした。

「……最近、ちゃんと食べてる?」

「食べてる」

「嘘つき。顔見ればわかるよ」

「……部屋、散らかってない?」

「……片付けてる」

「どうせ嘘でしょ」

笑っていた。こんなときでも。

しばらく、何も言わなかった。心電図の波形だけが、静かに揺れていた。

面会時間はとっくに過ぎていた。栞の家族も帰り、廊下の足音も消えた。

看護師の巡回の気配だけが、ときおり遠くを通り過ぎていく。

「……君が好きだって言ってた映画、最後も病室だったね」

……ああ、そうだった。

あの映画も、最後は病室だった。主人公が眠る恋人の手を握って、朝を待っていた。

あのとき僕は、画面の中の話だと思っていた。

しばらく、どちらも何も言わなかった。

心電図の音と、エアコンの低い唸りだけが部屋を満たしている。

沈黙が怖いわけではなかった。

栞といるとき、黙っている時間はいつも穏やかだった。

「……ねえ、ちょっと理科室みたいな匂いしない? ここ」

言われて、息を吸った。消毒液の、鼻の奥にツンとくる匂い。

「……確かに」

「あの理科室の、木の匂いと薬品が混ざったやつ。嫌いじゃなかったな」

「栞、理科の授業好きだったもんな」

「好きっていうか、あの部屋の空気が好きだった。教室と違って、みんなちょっとよそ行きの顔するでしょ」

栞は天井をぼんやり見つめたまま、続けた。

「……同じ班だった子、いたじゃない。よく一緒にお昼食べてた子」

「ああ……」

「元気にしてるかな。もう会えないまま、どうしてるかな」

もう会えないまま。

その言葉が、班の子のことだけを指しているのではないと、僕にはわかっていた。

栞は学校の記憶を辿りながら、自分がもう戻れない場所の数を、静かに数えているのだった。

少し間があって、栞が口を開いた。

「……ねえ、湊は死んだらどうなると思う?」

「……わからない」

「私ね、天国とか、そういうのはないと思ってる」

「死んだら、ただの物質に戻るの。骨とか、灰とか、土とか。それだけ」

言い方は淡々としていた。怖がっている様子はなかった。

ずっと前から、自分の中で折り合いをつけてきた言葉なのだと思った。

「……そっか」

「でもね——」

栞は少しだけ首を動かして、自分が横たわっているベッドのシーツに目を落とした。

「物も、覚えてるんじゃないかなって思うの。ここに誰がいたか」

「……覚えてる?」

「たまに夢を見るの。知らない人の夢。知らない天井を見上げて、知らない誰かが泣いてる夢」

「最初は変な夢だなって思ってたんだけど、途中で気づいた」

「ここ、私のベッドだって。同じ天井で、同じ窓で。」

「……前にこのベッドにいた人の記憶なんじゃないかなって」

僕は何も言えなかった。

「だから、死んだ後のことはあんまり怖くないの」

「私がいなくなっても、このベッドとか、この部屋の空気とか、どこかに残るんじゃないかなって」

栞はそう言って、シーツの上の僕の手に、自分の手をそっと重ねた。

「……誰かがここに触れたら、思い出してくれるかもしれないでしょ」

サイドテーブルのコップに手を伸ばし、ストローを彼女の口元に近づけた。

栞は少しだけ口に含んだが、すぐに苦しそうに顔をしかめた。

飲み込めない。水さえも、もう身体が受け付けなくなっていた。

僕はコップを戻し、タオルで彼女の口元をそっと拭いた。

「……ごめんね」

「いい。いいから」

栞はしばらく目を閉じていた。眠ってしまったのかと思った。

でも、彼女はまた目を開けた。

「君に愛されて生きてこれたこと、とても幸せに思うの」

「だから泣かないで、ねえ」

泣いていたのは、僕の方だった。

ポケットに手を入れた。ずっと持ち歩いていた小さな箱を取り出す。

僕は彼女の手を取り、指輪をそっとはめた。

——彼女の指は細すぎて、薬指からするりと落ちそうだった。

「……ばか」

彼女は指輪ごと、僕の手を握った。

落ちないように。

彼女の目が、ゆっくりと閉じていった。

今度は、もう開かなかった。

呼吸は続いている。浅く、小さく。指先はまだ温かい。

手を握ったまま、僕はパイプ椅子の背に身体を預けた。

秋まではもたない、と医者に言われていた。

六月。今が最後の季節だった。

夏を一緒に迎えることはない。

秋の風も、冬の朝も、来年の春も。

次の季節を、この手を握って歩くことは、もうない。

いつの間にか、眠っていた。

窓の外で、救急車のサイレンが鳴っている。

この病院のどこかで、誰かが同じ夜を過ごしている。

栞の手は、まだ僕の手の中にあった。少しだけ、冷たくなっていた。

もっと早く気づいていれば。もっと何かできたはずだ。

——いや、そうじゃない。

僕はただ、彼女がいなくなる世界で生きていく自分を、許せなかった。

許してほしい。

こんな僕を、もう一度だけ。

指先が、錆びた金属のフレームから離れた。

冷たかった。さっきまでの熱が、嘘のように消えていた。

部屋は静かだった。

何も聞こえない。機械の音も、彼女の声も。

消毒液の匂いはとうに消え、埃と夜気の匂いだけが鼻を掠めた。

目の前には、黄ばんだマットレスと、腐りかけたスプリングと、剥がれた塗装の鉄骨があった。

その脇に、乾いた花が飾られていた。

花びらはとうに失われていた。色も、匂いも、何もかも。

しばらく、動けなかった。

割れた窓から夜風が入り込み、カーテンの残骸をわずかに揺らした。

それだけのことが、この部屋にまだ時間が流れていることを教えていた。

振り返らずに、部屋を出た。

廊下を歩いた。

半開きのドアの向こうに、別のベッドが見えた。別のサイドテーブル。別の窓。

どの部屋にも、誰かがいた。

名前も知らない誰かが、同じ天井を見上げて、同じように誰かの手を握って。

外に出た。

湿った夜の空気が、肺を満たした。

どれも黙っている。何も語らない。

公園のベンチも。歩道の縁石も。すり減った横断歩道の白線も。

けれど確かに、覚えている。

触れた手のことを、交わした声のことを、そこに確かにいた誰かのことを。

——眠ったまま、ずっと。

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