第1話
二人の書架
春の光は、少しだけ眠たい。
校門の前で、僕は詩織を待っていた。
新学期が始まってまだ一週間。中学二年生になって、また同じクラスになった。
詩織「ごめん、日直で遅くなった」
振り返ると、詩織が走ってきていた。
走ってきたと言っても、ほとんど息を切らしていない。
詩織の「走る」は、他の人の「早歩き」くらいのスピードだ。
悠「いいよ。どうせ暇だし」
詩織「悠はいつも暇って言うね」
悠「だって本当だし」
詩織は少しだけ目を細めて笑った。
笑うときに目が細くなるのは、小学生の頃からの癖だ。
詩織「今日、寄り道していい?」
悠「どこ?」
詩織「決まってるでしょ」
決まっている。
僕らの「寄り道」はいつも、同じ場所だ。
宮田書店は、駅から少し外れた路地にある、古びた書店だ。
小学校の高学年の頃、詩織に連れられて初めて入ったのを覚えている。
あれから、何度ここに来ただろう。
詩織「こんにちは」
店主のおじさんが奥から顔を出す。僕らのことはもう顔なじみだ。
詩織「新刊、入ってます?」
悠「また聞いてる」
詩織「毎週聞いてるよ。そういうものでしょ」
詩織は迷いなく、奥の文芸書コーナーへ歩いていく。
本棚の前で立ち止まり、背表紙を指でなぞる。その仕草は、何度見ても飽きない。
本を選ぶときの詩織は、いつもより少しだけ大人びて見える。
悠「……何か、いいのあった?」
詩織「ううん。でも、ここにいるだけで落ち着く」
僕もそうだ。言わなかったけれど。
店の一番奥。
読書用の椅子が二つ、窓際に置かれている。
僕らはいつもこの席に座る。
詩織は文庫本を一冊、膝の上に置いた。
古い装丁の、薄い本。
悠「それ、『水辺の図書室』だよね?」
詩織「うん。この店、まだ置いててくれるんだ」
『水辺の図書室』
去年の夏、詩織に勧められて読んだ小説だ。
静かで、少し不思議で、読み終わったあと、何も言えなくなるような本。
詩織「この本、最初に読んだとき、悠、なんて言ったか覚えてる?」
悠「なんて言ったっけ?」
詩織「覚えてないんだ」
悠「ごめん」
詩織「『読み終わったのに、まだ読んでる気がする』って言ったんだよ」
そんなこと、言ったっけ。
でも、わかる気はした。
この本を読んだあと、しばらく世界の音が遠くに聞こえる感じがしたのを、僕は覚えている。
詩織「私ね、あの一節が、ずっと頭から離れないの」
詩織はページを開き、少しだけ声を落として読み上げた。
詩織「『誰にも読まれなかった本は、本当に存在したと言えるのだろうか。』」
詩織「『言葉にならなかった想いは、水面に映る月のように、触れた瞬間に消えてしまう』」
詩織の声は、静かな水面に落ちる小石のように、店の空気を揺らした。
詩織「ね、どう思う?」
悠「どう……って?」
詩織「言葉にならなかったものって、どこに行くんだろう」
僕は、少しだけ黙ってから答えた。
悠「……どこかに、残ってる気がする」
詩織「……どうして?」
悠「消えたら、こんなふうに、覚えてたりしないから」
詩織はしばらく僕の顔を見てから、ふわっと笑った。
詩織「悠、たまにそういうこと言うよね」
悠「べ、別に……」
詩織「褒めてるんだよ」
顔が熱くなる。
詩織は気づかずに、また本に目を落とした。
書店を出ると、空はもう夕焼けだった。
川沿いの土手を、僕らはゆっくり歩いた。
話すこともあまりなかった。
詩織は時々、川面を眺めて足を止めた。
詩織「悠、覚えてる?」
悠「何を?」
詩織「小学校のとき、ここで桜の花びら流して、競争したこと」
悠「覚えてる」
詩織「私のほうが、たくさん流せたんだよね」
悠「詩織、花びら集めて一気に流してたじゃん」
詩織「それが勝つコツなの」
詩織は川面に目を戻した。
彼女は昔から、こういう小さなことをずっと覚えている。
僕はそれを、ずっと言わずにいる。
詩織は一度だけ、深く息を吸った。
詩織「こういう春が、あと何回あるのかな」
悠「……どうしたの、急に」
詩織「ううん、なんでもない」
詩織「詩織は笑って、また歩き出した。」
春の夕暮れは、少しずつ紫に変わっていく。
隣を歩く詩織の髪が、風に軽く揺れた。
この時間が、ずっと続けばいい。
そう思った。
部屋に帰って、本棚の前に立つ。
『水辺の図書室』。
詩織に勧められて、自分でも買った一冊。
背表紙を指でなぞる。
——言葉にならなかった想いは、水面に映る月のように、触れた瞬間に消えてしまう。
さっき、詩織が読み上げた一節が、まだ耳に残っている。
僕はベッドに寝転がって、天井を見つめた。
詩織のことが好きだ。
たぶん、小学生の頃から。
でも、この気持ちを言葉にしたら、何かが壊れる気がする。
僕らの、この距離が。
この、本屋と川沿いと夕焼けの時間が。
言葉にならなかった想いは、消えないと、さっき僕は言った。
本当は、消えないでほしいと願っている。
ただ、このまま。
このまま、詩織の隣にいられたら。
僕は、それでいいと思っていた。
——このときの僕は、まだ何も知らなかった。
この時間が、あと何回しかないことも。
「先に好きだった」という事実が、何の役にも立たないことも。
春は、始まったばかりだった。