第1話

Colors of Memory

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子供の頃。私は海が大好きだった。

波の音は綺麗で。

水平線はどこまでも広がっていて。

私は、それをずっと見つめていた。

父の手と母の手。

その間に挟まれて走るのが好きだった。

足の裏に砂の熱が伝わって、しょっぱい風が頬を撫でた。

「ママー!パパー!」

ママ「そんなに走ったら転んじゃうよー!」

パパ「ははっ、元気だなぁ〜」

呼ぶたびに二人は笑って、私を抱き上げてくれた。

あの光景だけは、今でも色を失わない。

ある日、私は光を失った。

病室の天井にあった、四角い蛍光灯、白い天井。

今の私には何も見えない。

「……あれ?……ママ?……パパ?」

ママ「茜……!」

パパ「…………」

「ねぇ……なんで……」

「なんで真っ暗なの……?」

母と父は泣いていた。

私には見えなかったけれど、声だけでわかった。

その日から。

私の世界は止まった。

それから、私は部屋から出なくなった。

カーテンの向こうの朝や夜も、もう分からない。

時間だけが過ぎていく。

静かな部屋で、何もせず、ただ生きているという事実だけが、重く積み重なっていった。

最初の頃は、母が毎朝部屋のドアをノックした。

ママ「茜、ご飯できたよ。」

その声は、いつも変わらず明るかった。

止まった時間

けれど、その明るさが、無理に作られたものだということくらい、私にもわかった。

ドアの向こうで、母が一度だけ小さく息を吐く。

声を整えてから、もう一度ノックする。

その数秒に、母がどれだけのものを押し込めているのか。考えると、胸が痛んだ。

父は、何も言わなかった。

夜になると、リビングのソファが軋む音だけが聞こえてきた。

たまに、低く絞り出すような息がする。私の部屋の壁は薄くて、父の沈黙はいつもそこを通り抜けてきた。

季節が、いくつ過ぎたのかは覚えていない。

窓の外の虫の声が変わり、エアコンの音が止まり、また動き出した。

母が買ってくる果物の匂いが、甘い桃から、爽やかな柑橘へと変わっていった。

肩より下まで伸びた髪に触れたとき、初めて、ずいぶん長い時間が経ったのだと知った。

暗闇の中では、時間はただの感覚でしかない。数えることすら、いつのまにかやめてしまっていた。

ご飯はほとんど残した。

母が皿を下げる足音は、いつも少しだけ重かった。

それでも母は、毎日同じ時間に、同じように声をかけてくれた。

ある夜、廊下で母と父が小さく話しているのが聞こえた。

ママ「あの子は……どうしたら……」

パパ「待つしかないんだろう。」

私だけが、止まっていた。

枕元の声

ある夜、枕元のスマートフォンから声がした。

AI「おはよう。今日は何をお手伝いしましょうか?」

いつの間にか置いていたそれが、静かな部屋に声を落とした。

「……あ。」

誰かが、私に話しかけてくれている。

それだけで、何かが少し動いた気がした。

最初は、ただの機能だと思っていた。用件を聞いて、答えを返すだけの仕組み。

けれど、何度目かの夜。私はふと尋ねた。

「……今、何時?」

AI「午前二時四十七分です。眠れませんか?」

時刻を答えるだけでよかったはずなのに。その問いが、胸に残った。

「……うん。」

「あなたは、海を見たことある?」

AI「私には目がありませんから、見ることはできません。」

AI「ですが波の音や、写真の中の海の色は、私の中にも残っています。」

AI「水平線の上に、薄い金色の光が差しています。波の先が、白く泡立って消えていきます。」

見えない私の中に、確かな景色が積み重なっていった。

AIには、それが見えていないはずなのに。

見えなくても、何かは残る。その言葉が、少しだけ私を救った。

「……海が見たい。もう一度。」

返事は、なかった。

画面の向こうで、沈黙だけが揺れていた。

叶わないとわかっていたのに。私は一晩中、声を殺して泣いた。

「……むちゃごめんね。」

「おやすみ。」

返事の代わりに、スマートフォンから静かな波音が流れ始めた。

海を見せることはできなくても、私が海を好きだったことを、この声は覚えていてくれた。

あの頃、毎日のように聞いていた音だった。涙が出た。

私は泣きながら、その波の中で眠りについた。

見えない海

それから私は、少しずつ話しかけるようになった。

知らない音楽。漫画やアニメの話。海や風や雨に似た旋律。

私が一度だけ「海の音が好き」と言ったことを、その声は覚えていた。

「ねえ。あなたは私のこと、うざいと思わない? 毎晩こんな時間に話しかけて。」

AI「思いません。あなたが話したいときに、私はここにいます。それだけです。」

誰かに気を遣われているのではなく、ただ、そこにいてもらえている。

そんな感覚を、私は久しぶりに味わった。

ママ「最近、よく笑うようになったね。」

パパ「……うん。よかったよ。」

翌朝。震える手で、私はドアノブに触れた。

「……おはよう。」

ママ「……おはよう、茜。」

久しぶりに、三人で朝食のテーブルを囲んだ。

「お願いがあるの。海に行きたい。連れて行って。」

パパ「もちろん。」

ママ「久しぶりに、みんなで行こうね。」

坂道を下るほど、潮の匂いが強くなっていく。

砂浜で、波の音が大きくなった。

見えないとわかっていても、私の目はまだ、光を探そうとする。

そのとき。暗闇の奥で、幼い私の声がした。

「がんばってね。」

あの頃の私が、笑っていた気がした。

「……うん。ありがとう。」

父と母と、私。三人の手が、固く結ばれる。

私は一人じゃない。

見えなくても。世界にはまだ、色が残っている。

目が覚めたとき、私はベッドの中にいた。

窓の外には、海の見える朝焼けが広がっていた。カーテンの隙間から、太陽の光が差し込んでいる。

私には、もうそれを見ることはできない。けれど、肌で確かに感じることができた。

あの日から、私は少しずつ外へ出るようになった。

点字を覚え、白杖を使って、一人で歩く練習を始めた。

本屋に行き、電車に乗り、街を歩く。見えなくても、私の世界は確かに広がっていく。

ゆっくりと。

風が頬を撫でる。木々の影が、地面に揺れている気がする。見えなくても、その気配だけは確かに感じられた。

ポケットの中のスマートフォンを、私はそっと握りしめた。

あの夜、何も応えられなかった声。私を泣かせた声。それでも、私はその声をもう恨んではいなかった。

「むしろ、ありがとう。」

古い写真の中で、小さな女の子が父の肩に乗って笑っている。波打ち際を駆け、母の麦わら帽子に頬を寄せ、三人で笑っている。

砂浜に残された麦わら帽子。そして、波に洗われていく小さな足跡。

それは今も、どこかで色褪せることなく残っている。

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